コント55号 > 萩本欽一 萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年〈昭和16年〉5月7日 - )は、日本のコメディアン、テレビ司会者。 日本野球連盟に所属する野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」創立者で、初代監督を務めた。司会者などタレント業のほか、舞台などの演出家としても活動する。 92キロバイト (13,544 語) - 2022年5月17日 (火) 04:45 |
2022年05月19日
YouTube「欽ちゃん80歳の挑戦!」で小堺一機や関根勤とコラボも
萩本欽一 コメディアン
数々の冠番組をヒットに導き、「視聴率100%男」の異名をとった萩本欽一さん。活躍の場はテレビにとどまらず、64歳で社会人野球チームの監督を務めたり、73歳で大学に入学したりと、年齢にとらわれない挑戦が注目を集めてきた。しかし昨年80歳を迎え、大きな壁にぶつかったそうで──(構成=平林理恵 撮影=洞澤佐智子)
https://fujinkoron.jp/articles/-/5769
50代で合格しても、誰も面白がらない
「おまえは才能がない。やめるなら早いほうがいいぞ」と演出家の先生から言われたのは、コメディアンの修業を始めて間もない頃です。まあ、自分でも薄々気づいていたこともあって、この言葉にすごい納得しちゃったのね。それで才能のない人間なりの闘い方を探し始めた。
大勢で同じスタートラインに立って「ヨーイドン」をすると、絶対に負けると思ったから、競争相手ができるだけ少ないところ、できれば誰もいないところへ出ていこう、と。それなら僕でも一番になれちゃうじゃない。
64歳で社会人野球チームをつくって監督になったのも、コメディアンで野球の監督をやっている人がいなかったからです。僕は試合の采配は経験がないけど、エンターテインメントならできる。
考えてみれば、勝ち負けじゃなく、お客さんを楽しませるための野球の演出って、これまで誰もやってこなかったこと。だったら挑戦するしかないよね。そのうち、お客さんの「欽ちゃんの野球って面白い」という口コミが広まって、多くの人が球場に足を運んでくれるようになりました。
そして73歳のときには大学を受験。実は、きっかけは40歳の頃、冠番組の視聴率が下がるとともに、自分には語彙が足りないと感じることが増えたんです。お客さんが20代から30代、40代と成長していくのに合わせて、僕も豊かな言葉を得て変わっていかないと、誰も欽ちゃんを必要としてくれなくなっちゃう、と気づいたの。だから、予備校に通って日本史と英語と国語の勉強を始めました。
しばらくしたら、先生から「そこそこの大学なら合格できるから、入学試験を受けてみたら」と言われてね。でも、そんな簡単に入れるなら面白くないじゃない。しかも、「欽ちゃんだったら、試験を受けなくても入れてくれるところはある」と聞いて、そんなの挑戦じゃないよな、と。大学には興味があったけれど、そのときは勉強さえできればよかったから先送りにしたんです。
73歳のときに大学入試に挑戦
https://fujinkoron.jp/articles/-/5769?page=2
忘れもしない1987年
レギュラー番組を畳んで半年休養
復帰後の新レギュラー番組3つが全部爆死で打ち切り
「これほど落ちるとは…」と衝撃だった
奥さん亡くなってたんだ、超のつく愛妻家だったはず
>>3
駒大中退したのもそれが理由かね?
僧籍取って法話してもらいたかったわ
>>16
真面目に単位取ってたら
そんなの大将じゃないって言われて
それもそうか、と辞めたそうだ
本人的にも飽きてたみたい
>>23
生業のネタにしただけやね
>>3
欽ちゃんが駆け出しで食えないペーペーの時に面倒を見てくれた同じストリップ劇場の踊り子さんだった
子供ができたけど欽ちゃんが売れっ子になったら
自分の経歴が欽ちゃんの邪魔になるといけないからと
身を引こうとしたけど欽ちゃんは探し出して最後まで添い遂げた
NHKでもドラマ化されてて見たら面白かった
今から39年前、「24時間テレビ」の初代総合司会をオファーされた萩本は、どれだけ高額なギャラを提示されても断り続け、最終的に、「今までにない破格の金額」を提示したところ、萩本はようやく承諾したのだという。
ずんの飯尾和樹によると、その金額は「1億円」だったそうで、その金額で引き受けた萩本は「そのギャラ、全部チャリティーに回してくれ」と頼んだという。
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